デパートに勤める女性の抱く、親しい人に対するものでも世界全体に対するものでもない、かすかな接点しかない人たちのための願いを描いた「とおい、ちかい、とおい」、少年と人の姿をしたロボットの交流を通し、心とはなにかを探る「棄ロボット譚」、郊外の書店で働く私と本を万引きしてしまった女子中学生が「泣く」行為を通して気持ちを通わせる「そこは私が先にいた場所」など、身近な場所から現代社会を照らし出す短編全6編。
人の中で暮らしていても、人はみな孤独を抱えている。孤独を受け入れつつ、外からやってくるなにかに手を伸ばす。そのなにかもまた自分と同じように孤独なものであると感じつつ……。
逃げ場のない現実のなかで自分を保ちながら生きようとする人々の魂の物語。
幼い頃からずっと、本好きな子どもでした。買ってもらった絵本を片っ端から読み、幼稚園にある絵本を読み、それでも足りず、親戚の家に連れていかれてもまず本棚の前に行って、その前で座り込んでいるような。
小学生になって「図書館」というものが学校にあると知った時の喜びを今でも覚えています。毎日のように通いつめ、ずらりと並ぶ本の中から手あたり次第に本を手に取り、悩みながらもその中の一冊を選んで借りては、ほくほくと家に帰って読みふける……。
そんなことをしているうちに、いつしか自分でもお話を書くようになっていました。
あの頃本当にたくさんの、小人や妖精、魔法使いなどなどが出てくるお話を楽しんだのに、大人になった私が書く話は、自分にとって身近なことばかりです。実際、どの小説にも実体験が伴っていますし、舞台も自分が過ごしたことのある場所を扱うことがほとんどです。多少のSF要素やファンタジー要素はあっても、主人公の「私」が、ごくごく小さい彼女(または彼)の世界で、周りの人たちとつながったりつながらなかったりしながら暮らしている、日常的な話。
何故私はたいした事件も起こらない、自分の記憶を切り貼りしたようなものばかり書いているんだろう? 「自分」のことを小説にしたいのか? そう悩んだ時期もありました。けれど、書けば書くほど、「自分」そのものを扱っているのではないな、と思うようになりました。
私は自分を、この世界で生きる人間の「ひとつのサンプル」と捉えて描いているのです。「日本の地方都市で、自営業者の父と母のもとに第一子として生まれ、小中高大学と教育を受けて、職を得たり得られなかったりし、結婚をして、子どもを持った女」という私にとって一番身近なサンプルを掘り下げれば、その時代を実際に生きた「ひと」を描くことになるのではないか――。今はそんな風に考えています。
だからなのか、小説を書いていると「自分堀り」をしているように感じます。自分の深いところにぐっと手を入れて、すくえたものを取り出す。きれいなものではありません、とても深いところに、泥濘にくるまれて沈んでいたものですから。でもその汚れをはらい、目をこらし、言葉を使って描くことで少しずつ見えてきます。自分の中をさらわなければ知り得なかった「世界の断片」が。
その断片たちが、この度一冊の本になります。私が小説を書くことで見つけたひとつひとつの小さな、でも大切なかけらをどなたかと共有できたなら、心から嬉しく思います。
羽田繭
星々vol.3 〈羽田繭個人作品集刊行記念小特集〉より
とおい、ちかい、とおい
棄ロボット譚
顔
再会日和
You are what you eat.
そこは私が先にいた場所
2023年5月発行 B6版 158ページ
定価1,320円
装画 しまざきジョゼ
装丁 mikamikami
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